子育てという娯楽

職場内が(本当に)ちょっとしたベビーブームだったりする

 

20代~40代なので1世代近く離れた広いブームだ

 

子育ての辛さも年齢によってそれぞれ長所短所出てくるだろうし
家庭による力の入り具合でも大きく変わってくる部分だと思う

 

最低2人は生まなければ人口は赤字になる子供という存在が
完全に独り立ちするまでに目安として2-3千万かかるようだ

 

僕は子供が欲しいけど残念なことに男であるがゆえに
誰かに生んでもらわないと子供を入手することはできない

 

女に生まれていたら、もしかしたら精子バンクあたりで
提供してもらって今頃はよつばと!みたいな状態だったかも知れない

 

ただ、子育てに回すだけの資金面に余裕があり他の趣味と併用が困難な
子育てという趣味に対して半生を費やす覚悟を有していなければおすすめできない

 

人口黒字を考えた夫婦一組3人育てる場合にかかる費用は約1億

 

生涯収入が手取りで約1.9億くらいの時代

住居で3千万と車馬賃として1.5千万くらい見たら
一生に使える残りは人生80年として毎年5万強

 

消費税も増えるし共働きでも絶対にやっていけない額といえる

 

何事もなく人生をやり過ごしてこれなのだから高齢化を抑制するような
子育ては庶民の手を出せる趣味を大幅に超えてしまっている

 

そのため、基本的には子育てに関わる費用の大幅を免除するか
金の行方を監視したいのであれば国の施設で育てるべきなのである

 

外国人労働者で賄うという考えは、日本というブランドがなければ
質を保つことはできないのだからいい加減金銭面の余裕のない中高生の
出産等でも社会的な問題が発生しないようにサポートするべきに思う

お前は俺だ…

物語の中でたまに、何か(感情とか)が欠落した相手に対して
「こいつは俺だ…あの時の(○○に出会えなかった)俺なんだ…」的な
主人公側の環境に対する感謝だったり、敵に対しての憐みを表現する場面がある

 

僕自身は身内や、自分を打ち負かした相手にも感じてしまう感覚だったりする
「こいつは俺だ…勉強に意義を見出せた俺なんだ…」

 

○○だったらこう生きていたかも知れないと想像を巡らせると
別の肉体であっても自身のことだから手助けする必要があるし
自身のことだから倒さなければならないと感じる部分がある

 

弱い俺を救うために人気者な俺が障害になるのであれば
やっぱり俺自身が方をつけなければならない

 

他人の気持ちがわかる人間は存在しない

 

だからこそ○○な環境の自分を想像し、
その自分に対して相応しい対応をして生きていきたい

 

誰だって犯罪者や障碍者になる可能性を秘めているし
誰だって歳をとり長くても100年足らずで死ぬのだから

 

私刑は悪だと認識されつつも集団による私刑が横行している現代において、
その中の一人を抜き出し悪だと言い放ったところで素直に認めるのだろうか

 

国家の力によってその個人が逮捕されたとして、
その集団の矛先は国家やその個人に対して向くだけではないのだろうか

クローン食用人肉の可能性

食肉文化は世界各国で存在している

 

我が国では牛・豚・鳥・馬・羊・鹿・猪・鯨と
他国と比べても少なくない種類の肉を食べている

 

蝗や蜂等の食虫文化から典型的な魚も入ってくるため
優に百を超える種類の生物を食することのできる国である

 

外国では犬や猫、猿や鳩なども食べる文化もあり
聞くだけでも心が重くなる話題だが、口を出すのは野暮というものだ

 

基本的に人間社会は損得勘定で移り変わるものなので
特定の生物の食肉を禁止しているものはたいてい理由がある

 

理由は様々で、単純に不味かったり、労働や狩りのパートナーとして、
ペットとしてであったり、毒を有していたりで本当に広く存在する

 

具体的には、生食の禁止はエボラなどの感染症を防ぐためだし
牛食の禁止は牛を牛乳やバター、労働力や牛糞と見なした方がよかった歴史がある

 

バラモン教ヒンドゥー教に多大な影響を与えたマヌ法典には
あらゆる肉は生を失うことで入手できるため食肉を避けるような記述がある

 

つまり現在地球上で構成されているほぼ全ての倫理観において、
知らないという薄気味悪さを除けば命の介さない培養肉を禁止する理由はなく
将来的に長い目で見れば当たり前のように人肉を食べる時代が来るのかも知れない

 

しかし人間というものは、特定の部分において狂っている種だったりする

 

仮に人肉が美味だった場合、命の介さない肉という前提を
根底から覆してしまう人間がでてくることが考えられるからである

 

興味や、下心が他者や自身の肉を求めてしまうと
結局は公式的な人肉が許されないとヤミ市場になってしまうことは
容易に予想ができてしまうのが悲しい部分だったりする

近頃の若者は

近頃の若者は駄目だという考えは

ピラミッドを建造していた時代にはもうあったようで

時代や人種関係なくそう考える人は常に存在するようだ

 

ケースごとに考えてみる

 

1つめはオーソドックスに自己評価の高い人間が言っているケース

若いころの自分がもっと出来たという自信からくるもの

実際に上司が有能だったケースもここに該当する

 

2つめは文字通り駄目になっているケース

人間に限らず生物は必要とされる能力が伸びるものである

米俵の重さ60kgは大人なら誰でも運ぶことのできるから決まったなんて話もあるけど、

男である僕にも数m歩けるかどうか、非常に苦しい重量であることは間違いない

車を使うことで何百倍も効率的な輸送が可能になっているが、

当時の大人から見れば我々の多くは米俵すら運べない近頃の若者になる

 

3つめは時代の移り変わりに思考がついてこないケース

夏目漱石らが今のライトノベルのような評価を下されていたころからも

自分たちの考えと全く一致しない若者に対する僻みである

このケースの場合、何が駄目なのかを論理的に説明できない

 

4つめは若者は駄目だという認識が都合の良いケース

誰でも歳をとるが若者が使えるという認識を持たれると

地位が脅かされ食い扶持がなくなってしまう人間が発する例

 

仮に全員の年齢が二十歳前後で止まり若者という概念がなくなったとしても

4ケースとも若者という単語が別の単語に切り替わるだけのように見える

ジェットコースターに乗りたい

年々、ジェットコースターに乗りたい衝動の周期が短くなっている

 

昔は怖いから嫌いだったし、今は全くというほどに恐怖心を失っているのだけど
なぜだかそれでも、ジェットコースターに乗りたい衝動が僕を襲う

 

歳を重ねる毎に精神的にも時間的にも絶叫系が大丈夫な友人が減っていく

 

今ではせいぜい会社帰りにサンダードルフィンに乗るくらいだ

 

富士急ハイランドも遠くにいってしまったように思う

 

時間と金、気持ちがあっても遊園地で絶叫系を1人で楽しむ覚悟は結構重いものだったりする

2万数千冊のマンガを読んで

 

ここ5年くらいで読んだ漫画の冊数は

せいぜい千冊くらいではあるけども

 

これまでの人生で大体2万数千冊の漫画を読んできた

とはいえ1冊10分もかからないものから

ものによっては30-40分かかるような漫画まである

 

大体は30分くらいだと思う

 

時間や金額のコストを考えると人生の多くを

漫画に捧げてきたような形になる

 

ただ、それでもまだ漫画の片鱗にしか触れていないように思う

 

人生は短い

 

仮に漫画ではなく他の物

 

たとえば別のジャンルの小説や

 

たとえば別の島の野球だとしても

 

数年を捧げてもなお満足できない自分がいることは想像に難くない

 

これほど娯楽があふれている時代だからこそ

 

人生が短すぎるとやっぱり思ってしまう

 

いつかは蓄積してきた漫画に関することを書いていきます